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台風で恐怖の2日間 [与那国]

この写真記事は、沖縄タイムス(2008/9/15)から転載したものです。
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与那国にいる姉に14日は連絡が取れない。
被害があったのか心配。15日に連絡が取れた安心した。島の被害状況を聞く。姉の家には被害がなかったようだが、やっぱり、友人たちのこと、島の人たちのことが気になる。



昨年10月に、台湾花蓮に「姉妹都市締結25周年交流旅行」中にも大きな台風が与那国を襲っている。この間何度か襲われている。

今回の台風13号は、最大瞬間風速62.8m(13日)を記録して故郷与那国を襲った。
約45時間の滞留。雨は10日~14日まで850ミリ(13日午後11時頃までの24時間の降水量769.5mは観測史上最大値)の雨量。
田原川に近い所では、床上、床下浸水。雨が続いたため、地盤が弱り、何箇所かで道路や橋が損壊した。
農業被害は1億円。その他水産業、林業の被害は未調査だという。人的被害がないのは、島の消防団員たちの、高齢者などに対する、必要な避難措置などが功をそうしたように思う。経験が生きている。

県も国も、自然の災害については、適切な補償をして欲しいものだ。これが、県や国に納税している人々へのごく自然な振る舞いなのだ。1600余名の町は、自然災害に対応する財政的手段を持ってないと思う。

今年は沖縄本島に台風は来てないように思う。
温暖化など、気象条件変化が台風の襲来地を南に押し寄せているのか。

沖縄は、1960年代以前までは、台風銀座と言われ、台風がくる度に、家屋の損壊、浸水、土砂崩れなど、大変な被害を受け続けていた。

それからの家屋は、「借金コンクリート」が増える。
安全を買った代償として、新たに冬は冷たく、夏は暑い暮らしを余儀なくされる。(健康にいい筈がない)クーラーは必需品になり、経済的負担の増と共に、更に健康を害する。

コンクリート作りの家に住み始めて沖縄の人々は50年近くも経っている。
男の甲斐性は「住宅」「井戸」「墓」を作ることと言われて育った私たちは、30代から40代にかけて住宅をつくる。
安定した収入が続くことを前提に。
主婦のパートが多い理由は「学費」「生活費」「借金の返済」・・・いろいろあると思うが、「借金コンクリート」によることが多いように思う。

35年の長期に渡る返済は大変な苦労を背負っていることになる。決して「住宅ローンのことだけで」家族間でいざこざを起こしたり、信頼を失ったり、意地を張ったりしてはいけない。

裁判所や弁護士たちと相談すれば、道は拓けると思う。頑張れ、中高年。

※台風に関する資料は気象台、インターネット、新聞、電話での聞き取りの内容を掲載している。



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与那国にあった象形文字 [与那国]

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1885年(明治17年)「小学校令」が布かれるまで与那国では「バラ(藁)・ザン(算)」(藁などの葉を結び、数量を表示したもの)と「カイダ・ディ(文字)」(日常生活に必要な事物をかたどって、その物品名及び数量を指示した文字)が使われていた。そうだ。

1477年(文明9年)の「朝鮮漂流民の記録」(与那国を文字で記録した最も古いものといわれている)には、与那国の人々は文字を解せない、又は文字がない。とあることから、カイダ・ディは、琉球王朝の支配下に入った後の貢納物や取引のために作られたのではないかと考えられている。

いずれにしても、与那国には独特の象形文字があったことになる。(池間栄三著「与那国の歴史」より)

与那国の歴史は、沖縄の歴史より興味をそそることが多い。その他のことについては機会があれば紹介しましょう。

ヤシガニは産業の核になれるか [与那国]

7月31日、独立行政法人「水産総合研究センター」が

飼育条件下で「ヤシガニの交接と抱卵」に世界で始めて成功したことを発表した。
と沖縄の両紙(8/1)は伝えている。

南西諸島が北限のヤシガニが、
環境省レッドリストの「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されていることを始めて知った。

今年4月に、厄年の厄祓いを兼ねて島を訪れた40名余の団塊の世代1期生たちは、島に住む同期の仲間たちから、
沢山のヤシガニを煮込んだ「ヤシガニそば」をご馳走になった。

「ウンティムティ(芋のもち)」、「豆腐に塩辛」、
幼き頃のあの味が出揃い、豊年祭などで首に下げた「くばの葉の餅」は、孫へのお土産として人気があった。

少年~青年になる頃の思い出は、いつになっても、
新鮮に脳裏を駆け巡るものらしい。

24年ぶりのスナックの賑わいは、37歳に訪れた時と同じように、
夜が更けるの忘れるほど酒を浴びた。

ヤシガニは、子供の時からご馳走であった。
月夜の晩などに大人たちがとってきてくれたし、
同行したことも記憶してる。

島興しにいろいろ繁殖方法を研究した人もいたようだが、
上手くいかなかったときいていた。

先日ある人から、育て方がわかったようだよ。
やがて、産業化されるよ。と囁いてくれたのを思い出した。

それは、この研究センターのことではなかったが、
囁かれた繁殖方法にも興味をもっている。

もっと詳しく今回の新聞報道について興味をお持ちの方は、
インターネットで「ヤシガニの抱卵」で検索するか、

「水産総合研究センター」で検索し、HPにアクセスすれば、写真もみれる。

恋するエネルギーとばるま節 [与那国]

人生を楽しむ。

なんと心地よい響きのある言葉だろうか。
少年だった頃の憧れであり、
与那国での若きお兄さん、お姉さんたちの楽しいひと時、で覚えている思い出は、
「毛遊び(もあしび又はもうあしび)」だったように思う。

今の言葉で変わるものといえば「合コン」かな、と思いながら、いや違うのかな、と迷う。

毛遊びとは、かつて沖縄のどの地域でも広く行われていた。
主に夕刻から深夜にかけて、若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、
三味と唄と舞と酒の交流の模様である。

毛(もう)とは、やんばる恩納村の「万座毛」の景勝地にも使われているように、原っぱなどを意味している。

毛遊びに参加していたのは、中学校を卒業して働いていて、いわば青年団の構成員だったように思う。
もうすでに結婚を前提に付き合うことのできる男女が対象である。
このような交際の場は、全国的にもあったようだ。

三味の音に合わせ、恋唄の掛け合いをしながら、恋心を育てたことでしょう。
毛遊びは、
島全体が温かく育ててきたものであり、開かれた人間関係を築き、伴侶を決めるという伝統的な風習といえる。

恋のトラブルはあったにせよ、
恋さえ告白することができない現代人の「ストーカー」や「DV」「犯罪の若年化」とは無縁の世界に思える。

また、特に工工四(沖縄音楽の音符)がなかった頃の伝承的技術が受け継がれ、民謡、舞踊、三味線の演奏、民話などの文化が今に引き継がれた場でもあったことも忘れてはならない。

毛遊びは「出会いの場」「恋の場」「芸能を競う場」であったのでしょう。
想像するだけでも楽しい。

沖縄の伝統的な文化が、脈々と引き継がれてきた歴史に感嘆する。
即興の世界が人を育て、唄者を育ててきたようだ。
1年間で、誕生する沖縄の唄は何曲あるのだろうか。

レコードに収録されないで眠っている唄も含めると、何千とあることだろう。
「単独道州制」で先人たちの万国津梁(交易立国)の精神は受け継がれるのだろうか。

与那国の「とばるま節」(与那国民謡工工四全巻)に
※ないばがさ いちまでぃん ありんにゃな
(今の若さいつまでもあってみたい)

にんどぅぬ ついまい
(二十才の前後の頃で)

いちまでぃん ありんにゃた
(何時までもありたいものだ)

とある。その気持ちがある限り、団塊の世代も、新しい恋を始めるのかも知れない。
恋のエネルギーが何時の世でも、社会のエネルギーに転嫁するのだ。

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