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台湾の航空識別圏は与那国上空・・・ [国境の島]

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知っていますか。?

台湾の防空識別圏が与那国島の上空(東経123度)に設定されていることを。

2005年4月13日に与那国町議会は、防空識別圏の見直し「意見書」を大野功統防衛庁長官(当時の)に提出している。

過去に南西航空(現日本トランスオーシャン航空)の定期便が、台湾の軍用機にスクランブルをかけられた経緯や、中国と台湾に紛争があった場合、与那国が巻き込まれる心配があるからだ。

与那国は北緯24度27分、東経123度00分に位置しているから、識別圏の問題は、近くにあるのではなく、島の上空にあるのだ。

私には一つのロマンがある。
国賊と言わないで聴いてください。

那覇から与那国への移動は、離島県でありながら飛行機しかない。
那覇~石垣、石垣~与那国に船便があったのだが、有村産業が倒産の危機に瀕したため、那覇~石垣までの人的輸送が、いまはできないのだ。(石垣~与那国間は定期航路がある)

船が大好きな私にとって、「ショッキンGoo!」である。、妻や子も、一度は乗って見たかったという船がなくなったというニュースにショックだったようだ。

与那国に多くの人が訪れ、いずれは住んで欲しいと願う私にとって、友人・知人・家族が訪ねてくれる時に、余計な負担はかけたくないと思うのが人情である。

ちなみに、那覇~与那国までの飛行機賃は片道¥31,700なのだ。早割り等を利用すると安くはなるが、急にはなかなかいける料金ではない。

それで、識別圏が台湾にある間に、台湾~与那国に定期の航空路を開設できないかということである。両国間の交渉はなんとなくだが、うまくいくように思う。

国境の町与那国の安全は、隣国(台湾)と友好関係にあることに越したことはない。
その意味で、「与那国・花蓮市との姉妹都市締結25周年」をステップにした2007年10月と2008年7月の臨時便(国際線)の運行は、画期的なことである。

JTA(JAL)やANAには悪いが、与那国~台湾の定期便が動き出すと、東京~台湾~与那国という、ユニークな観光ルートが確立し、料金にも競争の原理が働くことになるから、利用者にとっては素晴らしい。

夢はみていいと思う。
遠いアメリカより、日本に一番近いアジアとの隣人との友好にもう少し、日本の政治家は目を向けて欲しいものである。

(台湾を眺望する:写真は私の同期生の奥さんが撮影/複写禁じます)

旅人への誘い [与那国小唄]

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与那国の人々に一番多く唄われているのが、「与那国小唄」です。
この唄からは、「唄」「情」「宇良部」「米」「鰹」「牧場」「てんだ鼻」「波多浜」「でいご」と,
いまでも島の人々の誇れる島の情景を歌詞に取り入れ、
昭和12年、当時の奥平方秀駐在の勧めもあり、世にでたようです。

私は与那国を表現するとき「庭園のように美しい島」といいます。
この狭い筈の島が私には「雄大な島」に観えるのです。

老いも若きにも、いまでも唄いつがれている名曲、この小唄の歌詞を紹介しましょう。
私が島で聞いた歌詞と少し違うような気がしますが、今回は「与那国民謡工工四全巻」(S57年改訂版)から収録しました。
(方言ではありませんので、特段の解説の必要はないと思います)


与那国小唄

一 波にぽっかり 浮く与那国は 島はよい島 無尽の宝庫
  唄と情けの 唄と情けの パラダイス サノサッサ
  サアッサ ヨイヤ ササ 与那国よい島 宝島 サノヨイヨイ

二 宇良部麓の 水田の稲は 島の娘の 情に伸びて
  年にお米が 年にお米が 二度とれる サノサッサ
  サアッサ ヨイヤ ササ 与那国よい島 米の島 サノサッサー

三 沖の波間に 聞ゆる唄は つれた鰹を 山ほど積んで
  帰る舟子の 帰る舟子の 大漁唄 サノサッサ
  サアッサ ヨイヤ ササ 与那国よい島 鰹島 サノサッサー

四 やがて夕日は 牧場に落ちて 島の名所 てんだの鼻に
  照らす月影 照らす月影 なつかしや サノサッサ
  サアッサ ヨイヤ ササ 与那国よい島 名所島 サノサッサー

五 涙あふるる 波多の浜に 恋し乙女の 与那国小唄
  何時か更け行く 何時か更け行く 島の夜 サノサッサ
  サアッサ ヨイヤ ササ 与那国よい島 唄の島 サノサッサー

六 一度お出でよ 与那国島へ 五月真赤な でいごの花が
  乙女心の 乙女心の 胸に咲く サノサッサ
  サアッサ ヨイヤ ササ 与那国よい島 情け島 サノサッサー

  旅の人々への誘(いざな)い・・・・・・一度はいらっしゃい与那国島へ

与那国空港は2000m [安心の旅]

与那国空港から花蓮へ.JPG
与那国の空港は昨年3月に2000mに延伸された。
意外なことに、先島では一番長い空港になり、計画では2500mまで延伸できる予定があると聞いている。

与那国空港は例にもれず、昭和18年に旧日本軍により建設された。
民間航空による運航が開始されたのは昭和32年。
昭和43年12月からYS-11型機が就航した。

日本へ本土復帰した昭和47年に、国の航空法が適用され、進入表面が同法の規定に抵触することから、滑走路の短縮運用となり、昭和50年滑走路800mで供用開始した。

その後、利用客の増大や大型化(YS-11型機)に対応して、滑走路1500mで供用開始。
その後利用客の増大や機材の大型化に対応するため、平成11年1500mの滑走路でジェット化空港として供用開始した。
平成13年度より、滑走路延長事業(1500→2000m)に着手し、平成19年3月15日に供用開始した。

与那国が町に昇格してから60年目。
私たち団塊の世代が1期生として与那国に誕生して、還暦を迎えた年に与那国町は、父や母、親戚の働く場所であった台湾(花蓮市)に初めて国際便として臨時便を飛ばせた。

平成の合併を拒否して、島興しに奔走している新しい息吹は、独り立ちの旅を始めた。
島の人たちにまだ「安心」と「豊かさ」の報は届いていない。

迷蝶といわれながら30年 [シロミスジ]

迷蝶ってご存知ですか。

日本全国、世界中どこにでもきっといるのでしょう。

与那国の 「アヤミハビル館」のHPから引用しますが、(左の「 」内をクリックするとアヤミハビル館にリンクする。)

「シロミスジ」という迷蝶は、40年前に、台湾以南の東洋熱帯域から渡ってきたそうです。

八重山の島々でも迷蝶として記録されているようですが、
与那国島に飛来したものは、
産卵、繁殖をくり返し、30年以上たった現在では1年を通して普通に見られる種類となっているそうです。

迷蝶は渡り鳥のように、季節風や台風、気流に乗って運ばれてきたものと推測されているようですが、「シロミスジ」のように長い間世代をくり返し、定着することができた種類はたいへん限られているそうです。

蝶たちが、これから住んでいく環境を選択する時、今までの住んでいた環境に近いことが一つの要素だと思う。
こんな小さな生物でも逞しさにを感じる。ロマンですね。
「知らぬ他国で~~・・・」怖さはなかったのでしょうか。

今回は、「シロアゴガエル」(特定外来生物指定)が、
与那国で初めて捕獲されたことを、琉球新報(8/1)沖縄タイムス(8/4)両紙が報道した。
与那国島の生態系に影響を与えかねないとして、
情報提供を求めているそうです。

島での危機感は、
小さい島でありながら、固有の生物が多く、独自の生態系を形成しているから、それを防ぎたいということのようです。
それに外来性の寄生虫が伝播されることも懸念されているようです。

東南アジア原産のカエルが何故?
これも40年ほど前に沖縄県嘉手納町で初めて発見されたそうで、本島や宮古では定着しているそうです。

生態系が崩れる心配はありそうですが、
人口勾配で新しい種を作り続けている人間の社会をあざ笑いながら、
生物たちは、自分の第二の古里作りに「遠慮はいらないから頑張ろう」と、仲間同士声をかけあっているようだ。

「西表野生生物保護センター」のHP(左の「 」内をクリックするとシロアゴガエルの写真と声が聞こえる。)

ヤシガニは産業の核になれるか [与那国]

7月31日、独立行政法人「水産総合研究センター」が

飼育条件下で「ヤシガニの交接と抱卵」に世界で始めて成功したことを発表した。
と沖縄の両紙(8/1)は伝えている。

南西諸島が北限のヤシガニが、
環境省レッドリストの「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されていることを始めて知った。

今年4月に、厄年の厄祓いを兼ねて島を訪れた40名余の団塊の世代1期生たちは、島に住む同期の仲間たちから、
沢山のヤシガニを煮込んだ「ヤシガニそば」をご馳走になった。

「ウンティムティ(芋のもち)」、「豆腐に塩辛」、
幼き頃のあの味が出揃い、豊年祭などで首に下げた「くばの葉の餅」は、孫へのお土産として人気があった。

少年~青年になる頃の思い出は、いつになっても、
新鮮に脳裏を駆け巡るものらしい。

24年ぶりのスナックの賑わいは、37歳に訪れた時と同じように、
夜が更けるの忘れるほど酒を浴びた。

ヤシガニは、子供の時からご馳走であった。
月夜の晩などに大人たちがとってきてくれたし、
同行したことも記憶してる。

島興しにいろいろ繁殖方法を研究した人もいたようだが、
上手くいかなかったときいていた。

先日ある人から、育て方がわかったようだよ。
やがて、産業化されるよ。と囁いてくれたのを思い出した。

それは、この研究センターのことではなかったが、
囁かれた繁殖方法にも興味をもっている。

もっと詳しく今回の新聞報道について興味をお持ちの方は、
インターネットで「ヤシガニの抱卵」で検索するか、

「水産総合研究センター」で検索し、HPにアクセスすれば、写真もみれる。

愛する古里への思い。心の絆とは [郷友会]

うらぶ山と瓦葺.JPG

与那国を出て行くのは、それぞれの理由がある。

「高校進学」「働く場所を求めて」「結婚」「病気」いろいろであり、
何度も島と往復している者もいる。

島に帰りたいと思う者がいることも確かである。
私が生まれた昭和22年の頃の5~6千人の人口には戻らなくても、
人のいない島にはしたくない。

働く場所がないのが、Uターンできない大きな理由だという。
島の人々は、「島から出た人とは、島を捨てた人」だという。

新しい島創りのために、島にゆかりのある人々に、語りかけてみよう。
智恵が重なり、きっと、うねりを起せることを信じて。

在沖縄与那国郷友会は結成50周年(2003年)を記念して、
島への思いを綴った歌を2曲発表した。

一つは「与那国郷友会音頭」であり、もう一つは「与那国郷友会会歌」である。
今回は、会歌(作詞:田本佳信氏(与那国出身)、作曲:奥平潤氏/与那国に住んでいた)を紹介する。
作品は公募に寄るものである。

著作権は在沖縄与那国郷友会にあるが、
旅立った島人の、気持ちをよくあらわしているので紹介する。

ヤマトにいても、石垣にいても、
歌詞にこめられた気持ちは、
島への共通の思いとして、共有していきたいものである。

(1)
洋上はるか      日本の国境(くにのはて)
人情(なさけ)は深き 理想郷
黒潮烟(けむる)   無尽宝庫(むじんぐら)
故郷出(いで)て   立ち上がる
見よ頼もしや     与那国郷友会(どぅなんきょうゆうかい)

(2)
希望に燃えて     郷友集う(ともつどう)
老いも若きも     共どもに
交わす笑顔に     胸おどる
夢を育み(はぐくみ) 進まなん
望みあふれる     与那国郷友会

(3)
高き理想に      広き智恵
睦の絆         和と心
共に手を取り     助け合う
行(ゆ)く道一つ    幸有らん
永久(とわ)に栄えん 与那国郷友会

ちなみに、この頃はみんなが集まると、よく三味線にのせて歌う。

恋するエネルギーとばるま節 [与那国]

人生を楽しむ。

なんと心地よい響きのある言葉だろうか。
少年だった頃の憧れであり、
与那国での若きお兄さん、お姉さんたちの楽しいひと時、で覚えている思い出は、
「毛遊び(もあしび又はもうあしび)」だったように思う。

今の言葉で変わるものといえば「合コン」かな、と思いながら、いや違うのかな、と迷う。

毛遊びとは、かつて沖縄のどの地域でも広く行われていた。
主に夕刻から深夜にかけて、若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、
三味と唄と舞と酒の交流の模様である。

毛(もう)とは、やんばる恩納村の「万座毛」の景勝地にも使われているように、原っぱなどを意味している。

毛遊びに参加していたのは、中学校を卒業して働いていて、いわば青年団の構成員だったように思う。
もうすでに結婚を前提に付き合うことのできる男女が対象である。
このような交際の場は、全国的にもあったようだ。

三味の音に合わせ、恋唄の掛け合いをしながら、恋心を育てたことでしょう。
毛遊びは、
島全体が温かく育ててきたものであり、開かれた人間関係を築き、伴侶を決めるという伝統的な風習といえる。

恋のトラブルはあったにせよ、
恋さえ告白することができない現代人の「ストーカー」や「DV」「犯罪の若年化」とは無縁の世界に思える。

また、特に工工四(沖縄音楽の音符)がなかった頃の伝承的技術が受け継がれ、民謡、舞踊、三味線の演奏、民話などの文化が今に引き継がれた場でもあったことも忘れてはならない。

毛遊びは「出会いの場」「恋の場」「芸能を競う場」であったのでしょう。
想像するだけでも楽しい。

沖縄の伝統的な文化が、脈々と引き継がれてきた歴史に感嘆する。
即興の世界が人を育て、唄者を育ててきたようだ。
1年間で、誕生する沖縄の唄は何曲あるのだろうか。

レコードに収録されないで眠っている唄も含めると、何千とあることだろう。
「単独道州制」で先人たちの万国津梁(交易立国)の精神は受け継がれるのだろうか。

与那国の「とばるま節」(与那国民謡工工四全巻)に
※ないばがさ いちまでぃん ありんにゃな
(今の若さいつまでもあってみたい)

にんどぅぬ ついまい
(二十才の前後の頃で)

いちまでぃん ありんにゃた
(何時までもありたいものだ)

とある。その気持ちがある限り、団塊の世代も、新しい恋を始めるのかも知れない。
恋のエネルギーが何時の世でも、社会のエネルギーに転嫁するのだ。

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与那国の名曲 [スンカニ]

与那国には多くの独自の文化がある。こんない小さい島になぜ?

小学校を卒業して、生活の頼りは12歳違いの兄貴だったため、沖縄(那覇)に旅立つ。
10名ぐらい一緒だったかも知れない。

ベビーブーム第1期生だけに、生徒数は100名を越えていたので、
僅かな移動に思えたが、港には大勢のひとびとが見送りに来ていたように思う。

母の姉が唄がうまく、きれいな声で港から送ってくれたのが、
「どぅなんスンカニ」であった。
(あの耳に残った唄がスンカニだとわかったのは大人になってからだった)

どぅなん「スンカニ」の歌詞の一部を紹介しよう。
(「与那国民謡工工四全巻(昭和57年3月10日発行改訂版)」/( )内の解説は私の思いです)

☆ゆなぐにぬなさぎ いくとぅばどぅなさぎ
 (与那国の情けとは あなたのことばが心に響く情けそのものなのです)
 
 ぬてぬあるあいや とぅやいしゃびら
 (命のある間は あなたの側に一緒にいたい)
  
☆ゆなぐにぬとけや いきぬみじぐぐる
 (私を思い 与那国に 渡る時の海は 池のように静かな海だ)

  くくるやしやしとぅ わたてぃ いもれ
 (私の待っている与那国に 心やすらかに 渡っていらっしゃい)

哀愁を帯びていて、人々の心に、静かな郷愁を呼びおこし、
時には、涙ぐみながら聴く事もある。

与那国の方言名は「どぅなん」と呼ばれているが、
この呼び方の解説にはいろいろな説がある。

その一つに「渡難(どなん)」という説がある。
「国境の島どぅなんは、絶海の孤島で、訪れようとしても、
海はいつも荒れていて、なかなか与那国に寄せ付けてくれない」とでも、いう意味なのか。

与那国の東崎(あがりざき)の芝の上で、
静かに花酒をチビリチビリやりながら、波の声に耳を傾けたいものだ。

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10年後の与那国の町並みと文化と観光 [ガイド]

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ある機会があって、「スイス」や「ハワイ」等を訪ねたことがある。

スイスでは、訪れる人々に四季を通して楽しんで貰うために、
植樹に工夫しているという。どの季節にも花を咲かせる、
色の変化を楽しんで貰うために、
それぞれの季節に応じた木を交互に植えているという。

ハワイでは、通り沿いの窓やベランダに洗濯物を干してはいけないとか、
屋敷の塀沿いには植樹をするとか。公認のガイドの資格をもつ人なら、
登録をすることにより、自分の車両で観光客を案内することができるとか。
(日本なら白タク行為として罰せられる)

イギリスのタクシーの運転手は、
その資格を取る前に、オートバイなどで、街中を何度もまわり、
施設や住所を指定すればすぐ案内をすることができなければ、
タクシーの運転手にはなれないとか。

フランスのルーブル美術館には公認のガイドがおり、
有料でツアー又は、個人を案内する資格があるとか。
そのための勉強は毎日朝から晩まで美術館に通い詰めだとか。
当然、ガイドの資格を持つ人たちは、無料で美術館に通い学ぶことが可能なのだ。

ところで、
沖縄は観光立県なのだから、島を案内するガイドの養成を積極的に行うべきである。

故郷与那国は、今は第一次産業が中心であるが、
八重山群島で唯一2000mの滑走路をもつ空港があるのだから、
台湾との交流も促進しているのだから、ソフト面での人材を、
今から育てるべきである。

観光協会と行政がタイアップして、
与那国の文化、人々とのふれあい、癒される島として、
街路樹の整備を含めた町並み作りと共に、公認ガイドを育てるべきである。

①役場の職員はすべてガイドの資格を持つ
②居酒屋やスナックなどの従業員もガイド養成講座を受講する
③個人のガイドを育て、ツアーや個人を有料で自分の車両で案内できる仕組みをつくる。

与那国は
狂言、組踊り、古典、民謡、踊りなどいろいろな独自の文化がある。
島には、素晴らしい方言がある。
「ん」で始まる言葉、鼻濁音など、沖縄の他の地域にない特徴をもっている。

自然に与那国らしさを醸し出すとは、どういうことなのか。
みんなで10年後の与那国を夢見るプロジェクトをスタートさせなければならない。

与那国に住んでいたのは小学6年までだった。
その当時の教育は「方言札」に象徴された地域の文化を否定する教育であった。
そのために、母の真面目さが私にも影響して、
方言ではいまでも少しの会話しかこなせない。

私にとっての23年間の在沖縄与那国郷友会での活動は、
与那国を知る機会を与えてくれたことであり、感謝している。ありがとう。

島にかえると同級生との会話は多くは方言であることに、
その素晴らしい文化を退潮させてはならない。と希望するものである。
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与那国と朝鮮・オリンピックの野球で金 [韓国]

北京オリンピックの野球は韓国が優勝した。
予選から一つも負けなしである。凄い。

知識人?は別にして、与那国と朝鮮(現在の韓国)の深い関わりを知る旅人は少ない。

531年前の1477年(クリストファー・コロンブスのアメリカ大陸発見1492年より前)、朝鮮済州島の船が遭難し、沖縄に漂着した。
琉球の歴史的には、尚真王が即位した年である。

乗組員の内3人が与那国の漁船に救助されたというものである。
島人たちの手厚い救護は6ヶ月に及び、西表で5ヶ月、波照間、新城(あらぐすく)、黒島、多良間、伊良部、宮古島、那覇、薩州、博多を経て3年目に故国朝鮮に帰還したというものである。

故国に帰った漂流民たちから、当時の李朝(政府)は細かく各島々での生活の様子、扱われ方を聞き取り「成宋実録百五巻」に残している。(手荒な扱いをしていたら、朝鮮との関係はどう崩れていたのだろうか?)という。

この実録が、沖縄の各島々の当時の様子を記録した唯一の書き物として、貴重な資料になっているのである。

最初に救助された与那国の事は、「島人の容貌は朝鮮人とよく似ている」「「耳に穴をあけ、小さな青珠を貫いたのを2~3寸垂らしたり」「男女とも裸足で履物をはいていない」・・・などなど、当時の生活の様子、食べ物、住居の事などが多岐にわたり綴られている。

与那国では、「町勢要覧」に記述されたこともあるので、興味がある方は読んでください。

そういうことも思い出し、北京オリンピックで予選から負けなしで金メダルを勝ち取った「韓国」には、素直な気持ちで「おめでとう」と言えたのである。

琉球にとっと北京(中国)はとても近い国ですが、与那国にとっては「朝鮮(韓国)」はとても、近い国なのかも知れない。と思いつつ。
(島人全部がそういうことを知っているとは思わないので、旅の途中で誰かを捕まえて聞いても、「知らない」という返事が返ってくると思う。ですから、島の人には直接聞かないでください。お願いシマス。)

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